昭和49年08月15日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ、神徳は、信心すれば誰でも受けることができる、みてるということがない。」 
         
 信心を頂くと言う事、御かげを頂くと言う事、信心をすれば誰でも御神徳が受けられると仰っておられますけれども、受ける者は極く稀である、ならお道の信心は信奉者は沢山在るけれども、何も御神徳を受けて居る方と受けて居ない方、そこで結局あの信心ををすればと言う事は、信心を頂けばと言う事だと思うんですね、信心を頂けば誰でも御徳が受けられると、その信心に御かげは着いて来るもの。そう言う御かげでなからにゃならん、処が信心を頂かずして、只御かげだけを頂いておる。
 言うならば、御かげだけが目当てであると言う様な信心は、それはどんなに素晴らしい、例えば修行しても、それこそ日参り、夜参りさせて頂いても、それではお徳を受けられると言う事は無いです。信心を頂けばである、ですから何時も申します様に信心の内容と言うのは信ずる心と言う事である。信心と言う事は段々、真心になって行くと言う事である。信心と言う事は金光様の信心の、言うなら何を目指すかと、金光教で言うならば神心である、金光様の御信心のぎりぎりの目的は神心なんです。
 だからその神心と言うのは、私共が人間で在ったんじゃ神心は出る筈は在りません。人間だったら人間心です、ですから神に向かうて行く信心が、ぎりぎりのところは言うならば、生神を目指して行く処の信心、そこから自ずと心はもう、神心が備わって来るそうです、神に向かって進んで行くのですから、神心は自ずと自分の心に、キリスト教で愛を説く、仏教で慈悲を説く、金光教では神心を説くのです。
 神心を目指すそれは神心、心だけが先行する事は無い、先ずはその神に向かって進む、神様にいわゆる進化して行く、神格化して行くだからその心はもう神心なんです、そう言うそういう信心なんです。信心の内容と言うのは、だから御かげを頂くと言う信心、御かげだけを何十年間頂き続けたと言う信心では駄目です。信心を頂かなければ駄目です、その信心に限りない御かげの受けられる道も開けて来るし、御かげが受けられるね。最近もう毎日が私がまぁ私がびっくりする位、奇跡の連続です。
 ですから。その奇跡的な御かげだけをなら頂いておると言う事ではです、御かげにならんですね。ならあの世までも持って行けれると言う御かげにならんです。子孫までも残しておけると言う御かげにならんです。そう言うたら、奇跡的な御かげを受けたと言うだけですね。ですから、私共は成るほど、奇跡を現せる程しの御かげを頂かにゃあならんけれども、先ずは信心を頂かなきゃならん。昨日はそこの野口さんの所の、丁度亡くなられて一年になる、一年の式年祭が自宅で御座いました。
 もう親戚の人達も、沢山御参拝になって居られました。合楽からは、あの緑り会の方達がご案内を受けて居られましたから、緑会の方達が、緑会に野口さんが言うならば、親交の深かった方達だけの、がお参りして居られました。本当に賑やかなお祭りでした。もう同時に盛大なお祭りでした。本当にこう式年祭と言う、もう宅祭りと言った様な感じの御祭りでした。私そちらへ参りましたら、応接間に通らして頂いて、もうそこにこう花が入れて有りました。
 その花はあれは何と言う花でしょうか、紫の花です紫の花にススキの穂がね。そのカヤの穂です、があの入れてありました、御神前に出らせて頂いたら、一番にその事を頂くんです、それで私はその事を芯にして、まあお話しをさせて頂いたんですけれども、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言う句がある、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」例えばそのススキの穂カヤの穂なんかが、もう枯れてこう通るのを見ると、それが薄暗い所から、こう見ると丁度何かぼんやりと、それこそ幽霊の様な感じがすると言う事。
 それともそばまで行って見た所が幽霊では無くてね。それは枯れ尾花で有ったと言う事です。本来信心と言うものはです、本当な事が解ると言う事なんです。本当な事が解ると言う事はです、どう言う事かと言うと、はァ本当に腹の立つ事であるな、情けない事であるなぁ、と言う様な事でも、その事でその問題を取り組んで信心を頂いて居ると、その事はそこ迄行くと神愛の現れで有ったと解るのです、腹の立つ問題でも、なからなければ、悲しむ問題でも無かった。むしろ御礼を申し上げるべきだった。
 それがここ迄来て見なければ解らないね。例えば死ぬると言った様な人間の重大事に直面した時ですらです、それも神様の御都合で有り、御神愛で有ったと言う事が解るのです、だから例えばそんなら霊様が一年前に亡くなられた。亡くなられたけれどもです、その事が御かげになったと言う事が解るのです。三番目の娘さんですか、とも子さんと言う方が居られます。久留米の市内ですかネ、久留米市内に居られます。
 その方がお夢を頂いておる、そのお夢がお夢の中にお母さんの霊様がいつも出て来られて、色々とその教えられたり色々とその、まぁ御気付きを下さる、霊様が力を受けておる。徳を受けておると思うです、その夢がどう言う夢かと言うと、「私はもう貴女方の事は心配せんと言う」子供達の事はもう心配はしないと、何故かと言うと、あなた方には合楽が在るからと言わっしゃった。
 私は例えば困った時、難儀な時にです、合楽に行ってお願いをする。御相談をする事が出来るから、お母さんは貴女方の事は心配はしない、もうお母さんは、今そんな段の事じゃない、もう兎に角忙しくて、忙しくてといわしゃったち、今合楽で、合楽示現活動と言う様な事が、いつも信心の芯になっております。いわば合楽を現すと言う事です。今日の御理解から信心を頂くと言う事はね、そう言う事なんです。親先生が言うて居られる事を信じる。そしてそれを行動に移す。
 そう言う生き方にお徳が受けられるんです。ほんな事じゃろうかち、例えば親先生が言われた、ほんな事じゃろうかと言うて思うとったんではです、次の行動にも移る気も起こらないでしょう。親先生がああおっしゃるから、それを信じて合楽を現す事に精進する。昨日福岡の川上さんが、こんな本を持って来て読んで見て下さい。キリスト教の本です、息子さんの職場に、これを売りに来たね。
 それでまぁ、金光様の信心を頂いて居るけれども、折角売りに来たから買ってそれを読んで見た処が「お母さん、親先生が最近おっしゃって居られる事と同んなじ様な事が、これに一杯書いてあるよ」と親先生に読んで貰って下さいと言うて、その息子が言ったからと言うて、昨日持って来て下さった。だから、私パラパラと捲らして頂いて、丁度読まして頂いた所にです、こう言う事が書いて有りました。終わりの時の始まりと、キリストが、もう世の終わりと言う事を予言しておられるね。
 言うならば、最後の審判と言う事を言っておられる。もう悪は全部滅びてしまう時代が必ず来る。残るのは善だけだと、言うならば悪人は必ず全部滅びてしまうのだと、それは、滅びて居る事がもう、始まっておるんだと、言う事なんです。地球上に大変な、言うなら難儀な問題が次々と起きておる。そう言う事例を事実をずっと並べて、もうしかもそれはもう、切迫した事を述べてあります。
 次にはね産みの苦しみの始めと言う事、産みの苦しみ産みなす苦しみ、だから私共が例えば様々な、例えば何と言うですか、この本に書いて有ります。悪疫が例えば悪い流行病です、が世界に遍満蔓延する大地震が起きる、大洪水が起きるそう言うあらゆる、その事で言うならば、悪が滅びて行く働きと言うのがあると、だからそう言う難儀をまともに、ただ受けて行くと言うだけでなくて、ですその終わりの時の始まりと言う事は、例えばその終わりの時と言う事はね。
 神様の目から御覧になるとネ、千年が一年だそうです、だからこの事は六千年前からの神の、言うならば、そう言う働きがあって居った。それがもう丁度六千年目に来てると言う訳です。の頃ですだから千年が言わば一年です、しかしそれで例えて言うとです、なら私が六十歳。六十歳の事を振り返って見ますと、本当に昨日の事の様に有るです。本当に六十年間と言うのが、ほんとに六日か、一週間の先の事の様に、例えばこう思うて見るとです、ついこの頃の様な風に思うです。
 皆さんもそう言う意味だと思うんです。だから神様は例えば千年の事でも、ほんに例えばネ、一年前の事の様にしか思いなさらないと言う様な意味なんです。その六千年目と言うても、言うならまぁ千年は有ると言う事なんです。けれどもそれは神様の目からご覧になると、一年にしかならない。だからこう言う表現をとい言うか、こう言う事になって来る事が、まぁだ六年しか掛かってない、(笑い)事になる、千年が一年ですから、そう言う様な事が、この本に書いて御座います。
 成るほど一つ意にかなった話だと、こう思わして頂きましたが、折角言うなら私共が苦しむならばです、それは何処までも良いものが生みなされて来る事の為の苦しみでなからなければいけない、大きなお腹抱えて居られる人に、あぁあんた難儀な事であんなさいます、苦しいなさいましょとは言わんでしょ苦しい事、けれどもですそれはやはり、お目出度い事なのです。
 それは良い物が生みなされる、前提だからなのです。私共がです、言うならキリストが言われる、生き残る、いわば人々は、いわば生みなして行く事のための修行をする人達だと言う事になるです。同じ苦労をして居っても、片一方は滅びて行く苦しみ、片一方は生みなして行く処の苦しみなんです。だからそれを信心ででは苦しみとは言わん、修行と頂く訳なんですネ、そう言う信心の例えば生き方。
 昨日、野口さんの霊様じゃないの、娘さんにいうて居られる事じゃないですけれども、子供、娘達の家の事は私が心配しない。何故って貴女方は合楽が有るからなのだ。お母さんは今、そげなだんじゃない、霊の世界で言うならばです、皆さんが合楽示現運動に一生懸命参画して御用を頂いて居られる人達がある様に、霊様の世界でも私がです、言うならば、極楽宣言とか、合楽宣言を霊様の世界でしておる。あなた方は助かっとらんごたるけれど助かってると言う事すら分っていない霊がいっぱい居る。
 言うならば合楽示現運動を野口シン子さんの霊は一生懸命活動して居られると言う事を感じますですね霊の。そう言う生き方の上に霊はいよいよ、霊の力も、霊の光も受けて居るでしょう。今全然合楽で御かげを頂いて居られる方達がです、いよいよ合楽示現運動に参画さして貰うて、その事に一心を掛けさせて頂くならばです、先ず私の言う事を信んじなければならない信心です。そしてそれを真心を持ってです。
 自分の周辺の人達や、極楽の御かげを頂き、そして次に合楽の御かげを頂けれる様な導きをさして頂くと言う事がです、そのまま御徳にならない筈が有りません。言うなら神も助かり、氏子も立ち行くと言う処の道が開けて来る様な信心からしか、御神徳は受けられないと言う事なんです。今合楽では、奇跡が連続しておる、けれどもそう言う奇跡的な御かげに、只あぁあらあらと言うて居っただけでは、終始して居っただけでは御かげが受けられない事は私共の周辺を見て、あゝ何十年信心してござるけれども。
 その徳ではない証拠に残っていない。あの世にもだから持って行って御座らんと言う事が分るでしょう。だから誰でも、その神徳が受けられると言う信心とは御かげを頂くと言うんでは無くて、信心を頂くと言う事だと、だから信心のとは、どう言う内容かと言う事はま、信心真心神心と言う様なもんです、進んで行くと同時に、段々分らして信心を頂いて行って居りますとです、もう怖いものが無くなる、心配な事がなくなる。それはそこまで行ってみるからです。
 幽霊の正体見たりその正体を把握するから、心配が無いのです。不安が無いのです怖いことが無いのですね。そう言う正体を把握する事の為の信心なんです。言うなら先ず、極楽を自覚して、そして合楽を目指さなければいけない。そう言う信心に、御神徳が受けられると、先日の安藤のお父さんのお話しの中に有りましたが、私共が奇跡と言うか、特別な、とにかく誰が見ても聞いても、素晴らしい御かげと言うなら、素晴らしい御かげと言うものはですね。
 今まで気付かなかった御かげが、御かげと気付かせて頂く様になった先にしか頂けんのだと言う様な事を言って居られます。言うなら極楽の自覚なんです。本当に頂き足らん様に思っておったけれども、本当に御かげを頂いて居ったと、自分達一家はもう極楽既に住まわして頂いておる信心の御かげで。おかげで病気もしない、薬箱も無くなる程しの御かげを頂いて、なら金が沢山貯金が出けた訳ではない。
 その日暮らしだそうで有るけれど、その時その時、必要な時には必要に応じて御繰り合せを頂いておる、おかげで家庭にも争いも無い御かげを頂いておる。これこそ、極楽で無くて何で在ろうか、と言う事が解ると言う事、そして、あれも御かげであった、これも御かげであった、頂き足らん様な思い方は間違いであったと言う事から、御かげが生きて来る。その御かげが育って来る。
 育ってくるから、そこにこれは誰が見ても、はぁ素晴らしい御かげだなぁ、やはり金光様の信心は素晴らしいと言う様な御かげになって来るのだと言う事なんです。そう言う信心を目指さなければならない。内容として頂いて居る御かげに気付かなければならない。頂いて居る御かげは気付かずに、只何か何時も頂き足らん様に、言わば信心からは御神徳を頂くと言う事は出けない。
 私共が本気に信心を頂いて、言うならば不安の無い心配の無い言うならば、安心の御かげを頂くと言う事が信心の究極の事で有ると、何時も言われるがです、それはどう言う事かと言うと、信心の薄かった時代、無かった時代は、それは困った事、難儀な事だ、恐い事だとと思うて居ったのが、段々一歩一歩そこに近付かせて頂いて、よくよくその正体を見たら幽霊では無かった、枯れ尾花であったと言う様にです、それ迄寄らせて頂いたら、それは神愛であったと解る。
 そこに言わば感謝の生活、お礼の生活が出来る、そう言う信心を身に付けて行って始めて受けられるのが、神徳だと言う事。信心すれば誰でもと、いとも簡単に説いてあるけれども、今私が申しました様な意味合いに於いて信心を目指し、又身に付いて行かなければ、あの世に持って行けれると言う様な、又この世にも残して置けれると言う様な有り難い尊いものにはなれません。
   どうぞ。